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僕の人生にはもう残ってないだろうな、と思っていた「初体験」が戻ってきた。久しぶりのブログ記事なのにいきなりで申し訳ないが、子供ができた。

今日りす坊の産婦人科医から指定のあったラボで二回目のソノグラム検査があったので、おなかに子りすを抱えるりす坊にくっついて行った。
若く物腰の柔らかいラボの先生は最新鋭の超音波発信器を巧みに操りながら、この間まで僕には全く無関係だった例の扇形の映像を示してまだ無人格の我が子の様子を丁寧に説明してくれた。

妊婦が35歳を超える場合は高リスク出産扱いとなり、ラボでの継続的な精密検査が義務づけられるようだ。先日の血液検査では、随分心配した胎児の遺伝子障害の確率が非常に低いという結果が出て、ほっ、と一安心したところだった。
今日の検査によると身長は5インチ、体重は9オンス。ちびのくせにもう脳も背骨も心臓もしっかりできていて、手足とも指が10本揃っていた。こんなふうに子供がしっかり大きくなっている様子を映像でみると、親になるという実感が湧いてくる。それどころかすでに愛着すら湧いてくるから不思議だ。それにしても生まれる前から本人の了解もなく映像デビューなんて、今時の子供はたいへんである。

ところで性別が判明した。男児である。映像を見ている段階で素人目にも明らかだったが、先生が、性別を知りたいですか?と尋ねるのでちょっと可笑しかった。

出産予定日は11月19日。あと4ヶ月で若葉マーク付きの高齢パパになるというご報告でした。

ふたたびご無沙汰しております。今日は出張先のホテルからこんにちは。はや2010年も三分の一終わり、気がつけばもう5月で日本ではちょうど黄金週間の時期ですね。こちらの方ではこの間も色々あったが、なんとか引越が終わり新居に収まった。訳あっていまだにインターネットは繋がってないが、その話はまた機会を改めて。

日曜日から出張でカナダ・バンクーバーに来ている。ここに来たのは25年振りで、今回も86年の冬と同じような冷たい雨に迎えられた。ウォーターフロント地区にあるホテルにチェックインしたあとも強い雨と風が続いていた。晴れ男のはずの僕にしては、あまり相性のいい街ではないのかもしれない。

今回は国際会議に出席する日本本社のVIPのアテンドで、会議中はフリーになるので出張のなかでは随分ラクな部類に入る。公式行事がないときは、車で観光、おっと、市内視察ということになっている。幸い3日目の今日は朝から天気が持ち直して快晴となったが、気温は最高でも15度くらいと肌寒い。ロサンゼルスから来ると、雨といい、ひんやりした気温といい、多くの人が歩く都会というのはとても新鮮に感じる。

そろそろ夕食に出かけるので、つづきはまた今度。と、いいつつ積み残しが多いので、いつの話になることやら。

またまた仕事にうつつを抜かしてとんとご無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

今年は例年になく強風と雨が多い年で、もう3月も半ばにさしかかったのにまだはっきりしない肌寒い日が続いている。朝から降ったり止んだりの週末、りす坊と散歩をかねて近所のCostcoに出かけたときのことだ。軽く千台は駐まる広い駐車場はいつ行っても満杯だが、天気のよくない日は割合簡単に空きが見つかる。首尾良く入口近くに車を停めて空を見上げたとき、見事な虹が架かっていた。

 

そういうと、いつかロサンゼルスの近郊で一般の人がたまたま撮影して新聞に載ったこんな写真があったのを思い出した。

僕のほとんど識別不能な写真からすると、まるで合成のような、でもこんなのにたまたま遭遇するとかなりうれしいだろうな、という虹の終わり。アイルランドの伝説では虹の終わりは妖精が黄金の詰まった壺を隠す場所だそうだ。

ちょうどその頃僕らの住む部屋の家主から、4月から値上げしたいんだけど、と連絡がはいった。少々の値上げなら仕方ないと思っていたら、一挙に2割近い値上げと聞いて慌てた。この数年の諸経費の値上げのためご了解いただきたい、というが、はいそうですか、とはいかない金額である。長年のつきあいで決して欲張りな家主でないことは知っているのだが、世間では値下げが普通の不景気のなか大胆な値上げを断行されては引越を検討するしかない。

一年で最も仕事が忙しい時期なのだが、知り合いの不動産屋さんに助けてもらって家探しを始めた。どうせ越すならもう一部屋欲しい、住み慣れたレドンドから離れたくない、セキュリティも確保したい、上に人が住んでいない部屋がいい、しかし出費は抑えたい、と夫婦それぞれわがままな希望が錯綜し、なかなかいい物件が見つからない。

そうして過ごした2回目の週末、紹介されて見に行った数件目に、眼下に緑の公園が広がるまさに理想的な部屋に行き当たった。それもいまの家からほんの数分の距離のところに。まるでくもり空から虹が下りてきたように、夢を見ているように、とんとん拍子で話が進んでいる。黄金の壺を探り当てたらこんな気分かもしれない。いまの部屋に比べてまあまあいい条件が揃っているが、ただし窓から見える浜辺の風景はなくなってしまう。ぜいたくを言いだすときりがないが、残念と言えば残念だ。

そんなこんなで、4月はじめには引越になる見込みだ。またしばらくご無沙汰になりそうだが、今度お会いするまでみなさんどうぞお達者で。

ここからつづく】

ニューメキシコでの最後の朝は、アコマの村にある賭博場付きホテルで目が覚めた。まだ新しい清潔なホテルなのに、カシノが儲かっているのか非常にリーズナブルな値段で部屋が取れた。

昨晩の雪は結構な量になったらしく、TVを見ていると僕らが通ってきた高速は朝から閉鎖中だそうだ。今日訪れる予定のアコマ・プエブロは高台にある「天空都市」なので、雪で臨時休業になったりしてないだろうか。カールズバッドの二の舞にならないようにと祈りながら、とりあえず行けるところまで行ってみた。

それにしても、しっかり積もってるな~。一晩経った雪なので、細心の注意を払いながら、スピードを落としてそろそろ進んだ。アコマのビジター・センターの駐車場にもう何台か先客の車が停まっているのが見えてようやく胸をなで下ろす。この辺ではこの程度の雪は雪のうちには入らないのかもしれない。

センターの大きな木の扉を押して入ると、中はほっと暖かい。受付で尋ねるとまもなく今日一回目のツアーが出発とのことだったので、二人分の切符とカメラ持込み許可書を買った。センターはまだ出来てそれほど経っていなさそうな様子で、自然の風合いを生かしながらも金属とガラスのモダンなタッチのデザインはなかなか心地よい。案内ビデオを上映している小劇場、工芸品・歴史的遺物・プエブロの生活の写真などの展示がある博物館、カフェテリアなどを併設しており、手洗い一つとってもそんじょそこらの美術館よりよっぽど立派である。やがてマイクロバスが到着、僕らを含めて10名ばかりのツアーが始まった。

バスは雪が積もった急な勾配もへっちゃらで登り、センターのある平原から100メートル上空にそそり立つ平たい岩山(メサ)の頂上にあるプエブロまで僕らを連れて行ってくれた。高台のアコマ・プエブロからは遙か遠くまで見晴らしがよいものの、高台だけあって冬の風はかなり冷たい。僕らのツアーガイドさんはアコマ族の若いお兄ちゃんだった。説明がとてもうまく、アコマの人々の生活や風習を興味深く、わかりやすく、そしておもしろおかしく話すのでとても親近感を覚えた。僕らが今回の訪問に十分満足したのは、彼の話術に負うところが大きい。

伝説ではここスカイシティ(天空都市)にアコマ族が住み始めたのは12世紀のこと。居住地を求めてここを訪れた農耕民族のアコマ族にとって、好戦的な他民族からの攻撃をかわすのに高台は有利だったのである。昼間農耕を下界で行い、夜は岩山の上のプエブロに帰った。今でこそ車で登り降りできるが、近世以前は険しい岩肌に削った石段を使うしかなく、食料ほか資材はすべて下界から人が背負って持ち上げてきたそうだ。ちなみに水は上の写真左下の窪地に雨水を貯めて使っていた。

このプエブロには今も電気や水道は通っておらず、一年を通してここに住んでいる人は数十人しかいないらしい。ここも建物は伝統的にアドビ造りだが、こんにちでは持ちがよくメンテが簡単なモルタル造りに入れ変わりつつあるらしい。住居の上の階に登るには外付けの階段や梯子を使う。

生活は少々不便かもしれないが、見晴らしの点では最高の立地である。そうそう、不便といえば、ここのトイレも屋外に簡易式のがおいてあった。やっぱり伝統的な生活には苦労が伴う。

そして、ここでも人なつこい犬が自主的にツアーの案内役を買って出て、みんなに頭をなでられていた。りす坊がたいそう気に入られたようである。

16世紀終わり頃アコマ・プエブロもスペイン人の侵略を受ける。伝説によると当初2000人いたアコマ人は次々と虐殺され、遂に250人にまで減らされてしまった。アコマ族の土着宗教は禁止され、カソリックへの改宗が強制されたが、結局彼らの宗教はアドビ住居の奥に隠した地下礼拝所(キバ)で密やかに続けられたそうである。1641年には、アコマ族の労働を使ってこのプエブロの外れにカソリックのサン・エステバン・レイ教会が建てられた。

実は今回アコマ・プエブロに来ることになったきっかけは、アンセル・アダムズが撮ったこの教会の古い写真を見て強く印象を刷り込まれたことにある。そして実際に見た教会は僕の期待を裏切らず、歴史の重みをずっしり感じさせる堂々たる姿を見せてくれた。はるばるここまでやってきてよかった。

アドビ造りの教会の中は教会というよりむしろ高天井の土間の講堂で、白塗の壁には彩り鮮やかな虹や動物などおよそ教会らしくない素朴な絵、祭壇のにはアコマ族の象徴オウムの絵が描かれていた。この教会から出た正面の広場は部族の共同墓地になっている。興味深いのは、埋葬する場所がいっぱいになると盛り土をして次のレベルを造り、またそれがいっぱいになるとさらに次のレベル、と代々の祖先が地層のように葬られているということだった。つまりご先祖様が代々ここに眠っているわけである。そういうわけで、教会内部のほかこの墓地は神聖な場所なので写真撮影はできないことになっている。

大昔からこの高台に生活してきたアコマの人々の心のよりどころと生活を今に伝えるアコマ・プエブロへの訪問は、タオス・プエブロと同様に今回の旅行のなかでも特に印象深いものとなった。

今回の旅行最後のイベントを終えほっと一息ついたあと、アルバカーキに戻る高速から見えていたラグナ・プエブロの丘の上に立つ白い教会に立ち寄った。

1699年に建てられたこの教会は、今日までオリジナルの建物が残る数少ない教会のひとつだそうだ。教会の中に入ると、この施設を自主的に管理しているラグナ族の若い男性が、この教会と村の歴史について丁寧に説明してくれた。そのあと彼は自分で作ったという縦笛で、まだそれほど上手くないんだけど、とはにかみながらラグナの伝統的な曲を演奏してくれた。素朴な木笛の音色を聞きながら、300年の歴史のある質素な教会の中に座っていると、時を忘れラグナの過去にタイムスリップしたような不思議な感覚を覚える。先ほど訪れたアコマの話になり、彼の説明によると文化・芸術的なラグナ族と農耕民族で穏健なアコマ族は言葉や文化で多くの共通点があり古くから交流があるそうだ。丁寧にお礼を伝えて、ここを立ち去る前に、もう一度真っ白なファサードの頂上に立つ十字架をゆっくり見上げた。

お昼の時間になったので、昨晩夕食を食べにやってきたアルバカーキのオウルド・タウンにもう一度向かう。オウルドタウンの中心、プラザの前に立つサン・フェリペ・デ・ネリ教会は1706年に建立された。今の建物は初代が大雨で崩れた(やっぱり土塀だもんな)あと1793年に今の建物に建て替えられたものだ。ちょっと場違いな風合いの二本の尖塔は1861年に追加されたものだとか。後世に残る設計はくれぐれも慎重にしないといけない。サン・フェリペとは敬虔なカトリック信者でスペインの領土を拡大して16世紀後半にスペイン帝国の全盛期を築いたスペイン王フェリペ二世のこと。

食後はりす坊の強い希望で、オウルドタウン内にたくさんある土産店と宝飾品店を片っ端から巡ることになった。タオス・プエブロで見かけたズニ族の細かい(ニードルポイントという)ターコイズのブレスレットに心を奪われたらしく、どこで探しても気に入った細かい細工がないか、あっても腕のサイズに合わなかったのである。ある宝石店で、オウルドタウン内にズニ族の細工をたくさん扱う店があるという耳よりな情報を聞きつけ、すぐさま急行した。果たして、りす坊はその店でついに眼鏡に適うブレスレットに出逢ったのである。値段もまあまあ納得出来る範囲で、おまけに値引きに応じるというので、ニューメキシコの思い出に一点お買い上げとなった。

空港に戻る前に、アルバカーキの南10マイルほどのイスレタ(Isleta)という古いプエブロまで通り過ぎて、そこにある4世紀前に建てられたサン・アウグスティン・デ・イスレタ教会を訪れた。正面から見ると色白のケロヨンのように見えなくもない。最後と思うとちょっと寂しかったが、これを教会三昧の冬の旅の見納めに空港に向かった。

【おまけ】

今回ニューメキシコにいったついでに、ケイブルTVのUSAチャンネルの人気TVドラマ「In Plain Sight」の主人公の連邦保安官事務所がある(という想定の)アルバカーキのサンシャイン・ビルを探してみた。証言の報復に命を狙われる証人を保護するハードボイルド女性連邦保安官の連続ドラマは、なかなかいい脚本と魅力的な俳優陣のおかげで第2シーズンまで一貫して高い質を維持しており、今年もシーズンが始まるのを楽しみにしている。僕もりす坊もかなりのファンだが、伺ったところではサンノゼ在住のutaさんもたいそうお気に入りとのこと。ところでutaさん、このビルに連邦保安官事務所はないそうで~す。

2週間ほど前、家にこんなダイレクトメイルが送られてきた。

プラスチック製のはがきで、左上角と右上角のクレジットカード大の打ち抜きには「ハンバーガー1個買えば1個無料」と、「ハンバーガー2個買えばアペタイザー1個無料」と書いてある。カードにはそれぞれ僕の名前が刷り込んであるという凝りよう。これは、間違いなく招待状だ。おもしろく思って彼らのウエブサイトを見てみると

古典的バーガー屋に対する、大胆な21世紀の回答

と書いてあった。これは大胆な主張だ。ちなみに著名トークショウホストのオプラ・ウインフリー曰く「最高のバーガー」、GQマガジンは「死ぬ前に一度は食べないといけないバーガー」と絶賛らしい。僕はオプラもGQマガジンも信用してないので、自分で確かめるしかない。土曜日の夕方最寄りの店舗に急行した。

外観は確かに20世紀のバーガー店風ではない。店に入るとメタリックな喫茶店というか、学食というか広い面積にテイブルが整然と並び、天井にはパイプやダクトが剥き出しのいわゆるインダストリアルなスタイルだ。21世紀はインダストリアルなんだ。まばらに散らばって若者たちがバーガーを食っていた。どうやら、レストラン形式らしい。受付のおねえさんに持ち帰りを注文したいんだけど、と伝えると店の奥のカウンターに案内された。

酒瓶のないバーのようなカウンターで愛想のいい英国訛りのお兄さんがこんな注文シートを持ってきた。ここのバーガーはカスタム注文方式で、肉を選び、サイズ(1/3ポンド、2/3ポンド、1ポンドのいずれか。でかすぎ)、チーズの種類、つけ合わせ4種、ソースをそれぞれ10種類以上から選び最後にパンの種類を選んで注文完成。正直、これは面倒くさい。バーガーはバーガー、肉を焼いてパンにレタスとトマトを乗せてくれればそれでいいんだけど。値段はサイズで決まっていて、1/3ポンドは8.50ドル。オニオンリングも注文して、クーポンを使って全部で15ドル。クーポンでバーガーを一個タダでもらったので、チップをおいて帰った。

僕のはハワイ風。肉は1/3ポンドでマウイオニオン入り。チーズはブリーを溶かしてもらった。焼き加減はミディアム・レア。

りす坊のにはグリルドオニオンとアルファルファを挟んでもらってある。焼き加減はミディアム。いざ食べて見るとどちらの焼き加減ともレアで、それほど肉好きではなく、生肉はもっと好きでないりす坊は大変不満そうだった。僕としても見ず知らずの店に身の安全を委ねるのは不本意である。どう見てもO157菌が死滅する温度で調理してあるようには見えない。さて、期待の味だが、僕らの舌には最高のバーガーというアピールはなかった。ただの、どこにでもあるバーガーである。そもそも生焼け1/3ポンドは多すぎる。オニオンリングは量は山ほど入っていたがビチョビチョで食えたものではなかった。死んでから食べることはもちろんできないが、こんなのを食べてたらすくなとも確実に死に近づきそうである。

判決: In-N-Outバーガーの圧勝。このバーガーは著名人やメディア向きかもしれないが、僕らには安くて旨いほうがいい。

このあいだの月曜日、プレジデンツ・デイの3連休に久しぶりに夫婦連れだって海岸沿いを散歩に出かけた。毎週末のように雨が降り例年より肌寒かった今年の冬にしては、久しぶりによく晴れて昼間は25°Cまで気温が上がった。

僕らのコンドから南に向けてレドンドの砂浜沿いに自転車や歩行者のための舗装路が3キロほど走っている。レドンドの南にあたるトーランス海岸の南の終わりまで行って引き返して来る途中、どこかの子供が海を指さして突然大騒ぎを始めた。興奮して振り回している人差し指の先、海岸から10メートルほどのところには、賑やかに水しぶきをあげているイルカの群れがいた。

数年前数頭のイルカが海岸沿いまでやってきたのを見たことがあるが、これほどたくさんの群れを見たのは始めて。砕ける白波にもまれて波打ち際近くまで転がってくるうっかりものも含めて、お茶目なイルカたちは水から跳ね上がったり、サーフィンしたりと、浜辺の人間たちの注目を集めながら奔放に楽しんでいた。

イルカの群れはボードに座って見守るサーファーたちの間をすり抜け、ヨットを追い越し、僕らの歩く速さと同じくらいののんびりしたスピードで北に向かっている。こういうのを見つけるのが得意な人がどこにでもいるもので、海岸沿いを歩いて行く先々で人々は手をかざしてイルカの群れを眺めていた。

僕らの出発点の桟橋のあたりに戻ったころ、すっかり脚光を堪能したのかイルカたちはどこへともなく姿を消していった。

ここからつづく】

南国エルパソでこれまでよりずっと暖かい朝を迎えた。せっかく来たのだから、ここを去る前に少し街をぐるりと走ってみよう。街の南の外れで車を停め、国境に向かって歩いてみる。メキシコ人口が集中するイースト・ロサンゼルスやティファナによく似た街並みは、店の看板も客の呼び込みも当然のようにスペイン語だし、食べ物屋もすべて国境南バージョンだ。そういえば、歩いている人もみなソロ・エスパニョールな人ばかり。とにかく、予想していた通り、限りなくメキシコに近い街であることがわかった。

このゲイトの向こうに見える橋は、リオ・グランデを越えてフアレスにつながっている。映画「No Country for Old Men」(2007)で大金入りの鞄が川辺の草むらに抛りなげられた橋である。橋の途中まで渡って引き返してこれるかどうか制服のおじさんに尋ねてみたら、¡No puede señor! 橋は一方通行で戻ってくるには一旦向こうまで渡って500メートルほど離れた別の橋を通ってこなければいけないよ、とのことだった。僕らが話している間もエルパソで買ったものを山ほど背負ってメキシコ側に戻る人々がひっきりなしに横を通り抜けていった。

ここ数年メキシコ側国境周辺では麻薬カルテルとそれを一掃しようとしているメキシコ政府軍との間で闘争が続いていて多くの人命が失われている。エルパソの地元新聞のウエブサイトを見ると、毎日フアレスで起こる一般人を巻き込んだ血なまぐさい事件があたりまえのように掲載されているし、命に危害が及ばなくても真昼間からひったくりや強盗が多発しているらしいので、見るからにネギカモな僕ら二人組は格好の標的になること間違いなしだ。昨日見たミッション・トレイルの教会と、そして北で見たたくさんのミッションの始発点であるフアレスのヌエストラ・セニョラ・デ・グアダルペ教会はぜひ見ておきたかったが、今回は渡航を諦めた。無念。

エルパソの街を出発し北に向かうとまもなくまたニューメキシコ州に入る。最初の大きな街ラス・クルーセスでコーヒーを買ってから東向きに方向転換し、すかっ!と晴れた青空を背景にそびえるおもしろい格好をした山に向かってひたすら走る。この山並みは、ロッキー山脈の南の終わりあたりなのだろう。それにしても、昨日この天気が欲しかったとつくづく思う。

向かうホワイトサンズ・ミサイル試射場の本部は、この山を越えて反対側にあり、2日前に行ったホワイトサンズの砂丘からもそれほど遠くない。入り口につくと警備の若い兵隊さんから身分証明の提示を求められ、写真撮影の注意点の説明を受けた。ここは現役の軍事施設なので、入り口のゲイトや軍人やミサイル試射を行う平原にカメラを向けてはいけない。車をゲイトの外に停めてひとけのないがらんと広い施設の中を歩いて行くと、視界の先にこんなのが現れた。

歴代米軍ミサイルのオンパレードである。ミサイル・マニアならここは天国だ。それほどマニアックでもない僕らはそれなりに見て、さらに奥にある博物館に向かおうとした。そのとき!無造作に展示(というか、放置)されていたこんなものに出遭った。

1945年8月9日に長崎に落とされた原子爆弾(暗号名ファットマン)が納められていた容器の模型だ。ファットマンはトリニティ・サイトで実験に成功した原子爆弾と同じくプルトニアムを爆縮(容器内で火薬の爆圧で起爆)させる仕組みの原子爆弾だった。日本軍の兵器工場があった長崎の浦上に落とされたファットマンは、7000度の高熱と時速1000キロを超える爆風を発生させ、一瞬にして4万~7万5千の老若男女の命を奪った。日本民族にとってふたつ目の辛い悲しい歴史が強引に作られた瞬間だった。

この恐ろしい道具が唐突に目の前に現れ、文字通り不意打ちを食らってしまった。前にエノラ・ゲイの前に立った時と同じ衝撃が体を貫く。どうにも気持ちが落ち着かず、しばらくここから離れることができなくなってしまった。

博物館手前の小さな建物に「V-2を展示中」と看板があがっている。V-2は第二次大戦末期ナチスドイツが開発した人類初の長距離弾道ミサイルだ。戦争中たくさんのV-2 ミサイルがロンドンやアントワープに撃ち込まれ数千の人命が奪われたが、実際それ自体は戦局に影響を与えないキワモノ的兵器だったようだ。ナチス降伏後1945年に米軍はドイツの軍事工場で250基の未完成V-2ミサイルを発見、ロシアにバレないようこっそり運び出してここホワイトサンズに持ち込んだ、という解説が貼ってあった。まるで火事場泥棒である。

もともと世界征服の野望達成のための道具だったとはいえ、ナチスのミサイル技術が戦後~冷戦期のアメリカとロシアの弾道ミサイルや宇宙進出開発の基礎となったことを考えれば、さすがメルセデスやブラウンのひげそりやヘンケルの爪切りを生んだ国、ドイツの技術力の高さには驚かされる。当時のリーダーが悪魔のような独裁者でなく国が正しい方向に向かっていたら、また世界の歴史も大きく違っていたことだろう。

ここの博物館にも、どこか学園祭の展示物の雰囲気があった。軍隊博物館にありがちな兵器や武器の展示をやり過ごした先には、トリニティ・サイトの核実験本部のジオラマ模型が展示されていた。実験当時すでに廃屋だったマクダナルドさんの牧場住居跡にクリーンルームが設けられ、そこで最初の核実験に使ったグレイプフルーツ大のプルトニアム爆弾のコアが組み立てられたのである。この建物から2マイル離れたグラウンド・ゼロからの爆風で窓やドアは吹き飛ばされたが、建物自体は残った。実験後そのまま放置されていた建物は1984年に往年の状態に復元され、毎年4月と10月の第一土曜日にグラウンド・ゼロ周辺とともに歴史的記念物として一般に公開されている。

これが世界最初の原子爆弾(通称「ガジェット」)のレプリカ。当時の写真をみると現物はこれより遙かに大きい。戦時中ガジェット開発にまつわる陸軍側責任者と科学者側責任者の確執と苦悩を描いた映画「ファットマン・アンド・リトルボーイ」(1989)は歴史のほぼ忠実な再現として興味深く、ドラマとしてもなかなか見応えがあった。

 
トリニティサイトでの原爆実験

グラウンド・ゼロから16キロ地点の作戦基地でこの実験に立ち会った陸軍将校の公式報告書によると、爆発は「白日より何倍も強い焼け付くような光」で「黄金色、紫色、菫色、灰色、青色だった」そうだ。将軍、いったいどの色だったんでしょう?爆発の衝撃は160キロ彼方でも感じられ、きのこ雲は上空12キロにまで達した。半世紀以上経ったいまでも、グラウンド・ゼロ周辺ではほかより放射能レベルが10倍高いそうである。

人類が開けてしまったパンドラの箱はもう元には戻せない。人類の理性がこの技術を開発した英知を超え、二度と悲惨な歴史を繰り返させないことを祈りながら、相変わらず心穏やかでないままミサイル試射場を出発した。そして再び高速I-25号に戻り、北に向かう道すがら、見たかったもういくつかの古い教会に立ち寄った。

まず、2日前に北から下りてきたときに通過したサン・アントニオという小さな村落のサン・アントニオ・デ・パドゥア教会。この教会の詳細は不明だが、おそらく20世紀 前半のスタイルではないか。ちなみに、このニューメキシコ中部の寂しい村落はヒルトン・ホテルの創業者でパリス・ヒルトンの祖父、コンラッド・ヒルトン(1887-1979)の出生地である。テキサスには、テキサス生まれの名士を対象に「名士テキサス人(Texan of Distinction)」の称号を授与する制度があるが、60歳のころコンラッドにこの称号が授けられることになった。テキサス州は、てっきりサン・アントニオと聞いてアラモ砦で有名なテキサスの大都市生まれと早合点したのである。コンラッド翁がおずおずと、実はテキサス生まれではないのですが、と申し出たところ、面積もでかいが心もでかいテキサス州はこの失態をものともせず、「名誉」称号(Honorary Texan of Distinciton)を作ってホテル王に授与したそうである。

すぐ北のソコロという街のサン・ミゲル教会。17世紀前半に建てられた古い教会跡に1820年頃建てられた教会だが、中の祭壇の一部には古い教会の時代のアドビが残っていた。ソコロは中部ニューメキシコの中核ともいえるしっくり落ち着いた街で、街の中心プラザの周辺はよく整備されおり歴史的な佇まいを維持しようという地道な努力が見て取れた。プラザの近くには立派なビジターセンター+歴史協会まであり、道に迷っていた僕らにこの教会への行き方を親切に教えてくれた。なお、ソコロから西に80キロ走った高原に、27基の大型パラボラアンテナが一辺20kmの三ツ矢型の線路の上に並ぶ超大型電波望遠鏡(VLA=Very Large Array)がある。映画「コンタクト」(1997)の撮影にも使われた非日常的な景観をなんとか見たいと思っていたが、あいにくそこまで行く時間はなかった。これも洞窟、フアレスに加えて将来への積み残しとなった。

ソコロのすぐ北のレミターという集落にあった聖家族教会。ここに入植した篤志家が1830年代に建てた教会で、荒野の中に立つ素朴な建物だ。少々手入れが滞っている風だったが建物のデザイン自体は悪くない。ここもドアに鍵がかかっていて内覧はできなかった。

前の教会で終わりにしておけばよかったのに、次に訪れたのはちょっと離れたアラミヨという集落のサン・ミゲル教会。これじゃまるで地方の遊園地にあるバッタもんシンデレラ城か怪しいホテルじゃないか。オーラも何もないペンキのはげたトタン張りの建物をみて、テンションが急落下してしまった。そろそろ雲行きが怪しくなってきたこともあり今日はこれで終わり。ホテルに向かう途中、アルバカーキのオウルドタウンで夕食にした。到着が遅かったせいか店はほとんど開いていなかったが、プラザを中心に観光客向けの古い街並みが広がっていてちょっとおもしろそうな雰囲気。

時間があればもう一度昼間に戻ってくることにして、とうとう雪が降り始めた今夜はおとなしくアルバカーキの西一時間のアコマの村落にある宿に向かう。こうして、様々な感情が去来した一日が終わり、ニューメキシコでの最後の夜を迎えた。

ここにつづく】

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