【ここからつづく】
果たして今日はタオス・プエブロでは普通の日だった。一人10ドル(学割5ドル)の入場料とカメラ持込料を払い、いざプエブロ内に潜入だ。
入り口すぐのところに横たわるプエブロの共同墓地を通り
学校の運動場くらいある広場に進む。広場の間には細い小川が流れているが、今の季節は当然カチカチに凍っている。この広場を挟んで北と南にアドビで造った多層の集合住宅がある。ところでたびたび出てくるアドビというのは、土とわらと水を混ぜ合わせたものを型に入れ天日で乾燥させた煉瓦のことである。煉瓦をつなぎあわせるのにもわらを混ぜた泥を使う。アドビの壁は1~2メートルの厚みがあることが多く、断熱効果も遮音効果も抜群である。
タオス・プエブロは米国で一番古くから人が住みつづけているコミュニティで、およそ1000年の歴史があるといわれている。「顕著な普遍的価値を持つ」建物として1992年にはユネスコの世界遺産に登録された。電気も水道も通っていないが、およそ150人がいまもここで常時生活しているそうだ。アドビ建物の広場に向かう側にある部屋の多くは観光客向けの装飾品や陶器などの土産店になっているのだが、二日前のような祝祭の日には営業が全面的に禁止されるそうだ。
狭い戸口をくぐって中に入ると、そこは暖炉の火で暖まったこぢんまりとした店だった。ガラスのショウケイスや棚には手作りの銀製品や陶器が並んでいる。僕たちを愛想よく迎えてくれた若い女性がここでの風習の話をいろいろと説明してくれた。二日前の動物の面の儀式はどういう意味があるのかと尋ねたら、毎年冬至の時期に食料として犠牲になった動物への感謝を表す儀式だということだった。建物といい、生活様式といい、自然を大切にして生きる人々なのだ。物静かに語る彼女の声を聞いている間、パチパチ小さな音を立てている暖炉から清々しい香りが立ちこめているのに気がついた。部屋を清めるため薪と一緒にスギの葉とセイジで作った束を燃やしているのだという。
気に入ったターコイズの装飾品を見つけようとりす坊が血眼になっている傍らで、僕はアドビの住居の中を見ているだけで十分楽しい。白く塗られた室内は素朴ながら清潔に感じられ、なんといっても部屋の角にある小さな暖炉がいい。ただ、アドビ住居には前に書いたとおり電気と水道がないだけでなく、トイレもないらしいので、タオスの寒い冬の夜に外に用を足しに行くのはかなり辛いかもしれない。
プエブロ入り口近くにあるサン・ジェロニモ教会は1850年に建てられた教会。このプエブロでは新参の建物である。プエブロでは原始宗教、アメリカ原住民起源のペヨテ教、そしてローマン・カソリック教の3つの宗教が信奉されているそうだが、大半の原住民はキリスト教徒とのことだった。なお、この教会もアンセル・アダムズの題材になった。
りす坊に従って店をのぞいて回ったあと、僕らのフライドブレッドを目当てに自主的にガイドを買って出た人なつっこい犬に連れられて南側の建物を歩く。名残は尽きないが、これを見納めにプエブロを後にした。ここで会った原住民の皆さんには、風貌も言葉も風習も、どことなくアジアを感じさせる懐かしさがある。僕らにはずっと遠い血の繋がりがあるのかもしれない。
タオスから北西に30分ほど走ったところに深い峡谷にかかる鉄橋があるというので、ここまで来たついでに足を伸ばしてみた。この高さ240メートルの鉄橋の下を流れるのが、コロラドに端を発し、南にアルバカーキ、エルパソを通ってテキサスとメキシコの国境をなすリオ・グランデ、別名リオ・ブラボーである。鉄橋の上から深い谷底を見下ろすと、急に心拍数があがり、いつものように足がすくむ。峡谷の遙か下を流れる川の水量は、季節的なものかそれほど多くはないようだった。骨まで凍ような風が吹く橋のたもとで土産ものを並べていたおばさんの屋台をのぞくと、ニューメキシコ州柄の25セント玉をあしらったマネークリップがあったので一個譲ってもらった。そのお礼?に、最近舗装されたばかりのサンタフェへの近道を教えてくれた。
深い渓谷の底までどんどん下りていくその近道を通ってサンタフェに戻る途中、今日の締めくくりにちょっと寄り道をしてアビキューという小さな村落に立ち寄った。地図がないので道に迷ったが、なんとか1888年に建てられたその村の教会を探し当てた。小さな村落の場合、たいてい古い教会はその中心あたりに見つけることができる。周りの土地より高台にあるアビキューの村にはまったく人影がなく、ぽっつりと立つ古い孤独な教会の姿はまさに僕が想像していたニューメキシコの教会の姿だった。これだけまとめて教会を見ても、まだまだ感動が薄れていない自分にちょっとびっくり。
アビキューは今でこそどこにでもあるような山奥の小村だが、1730年代にはニューメキシコ準州で第三の人口を抱える入植地だったらしい。当時スペイン人に売買されたり奴隷にされたアメリカ原住民が多く住むスペイン圏のフロンティアの集落だったのである。まだメキシコの統治にあった1829年には、アビキューから豊かなロサンゼルスまでの交易ルート、通称スパニッシュ・トレイルの起点となったそうだ。なお、この村落のすぐ近くにジョージア・オキーフが98歳で亡くなる1949年まで晩年を過ごしたゴウスト・ランチという別荘がある。(いまはキリスト教関係の施設になっているらしい。)
たまたま古い教会を見に立ち寄った寂しい村落で僕らが住むロサンゼルスとの意外な絆を見つけ、僕は静かな興奮を覚えた。その隣で、りす坊は今晩の夕食の心配をし始めていた。
【ここにつづく】